je joue

好きだってことを忘れるくらいの好き

カルテットのいない火曜日に

※この記事は『カルテット』最終回放送一週間後の、3月28日時点で記事にしていたものです。オーディオコメンタリー的なノリで観ながら書きました。だからめちゃくちゃ新鮮、ですが諸々目をつぶってご笑覧いただければと思います。

 

「いないってことがずっと続くこと」


にはじめて直面している火曜日。
年明ける前はハグの日だったのに、年が明けた途端にこの冬の3ヶ月を奪っていって、実に軽やかに去っていってしまった…

青いふぐりのサルは見つからないまま、軽井沢の雪は解け、別荘にはリスがやって来る。
昔観たアイスランドの映画のタイトルのように、新しい季節が来るからぼんやりと考える。
『春にして君を想う』ように、『カルテット』最終話について書きたいことが多すぎるからここに綴ります。
本当は他にも書きたいことはあるけど、とりあえず純粋に劇中の事だけ書きます。

 

冒頭は真紀(じゃないんだけど)の独白から。
物が少なくて真っ白な部屋はまるで取調室、あるいは教会の懺悔室のように、真正面から彼女を捉えるカメラ。
何度も話題に出てきては一度も姿を見せなかった「ねこ」の置物が置いてあったのがせめてもの救いみたいに思えてくる。

「私が弾く音楽は、これから先全部灰色になると思うんです」

白黒つけないグレーこそがこのお話の世界だけど、こんな悲しい「グレー」があるだろうか。

そして、星の舟が行き着いた軽井沢でのささやかでいとおしい日々をこう表していました。

「それくらいね眩しい時間だった」

「こぼれる」ものの美しさや尊さは、9話のすずめちゃんの名台詞でも語られていたけど、
「眩しい」というのも実はキーワードなんじゃないかなと思う。

8話ですずめちゃんは「好きだってことを忘れるくらいの好き」な気持ちを、
お勤め先の社長さんに話すわけだけれども、その時に
「眩しいね」
と返されていて、その直後のシーンでもすずめちゃんが木々の間にこぼれる光を眩しそうに
見上げるショットが組み込まれていました。

まきさんとすずめちゃん、それぞれのこぼれおちる気持ちが、2週間の時を隔てて対話のように挿入され、
なんだか文字通り「きらめく」ような、本当に心に迫るものがあって、
ちょっと開始5分も経たずに泣かせにかかってきやがって…と思うわけです。

そして一話に巻き戻ったみたいだけれど、
「まきさんの不在」という決定的な違いが影を落とす日常が描かれていきます。
(「よろしく頼ムール貝」って言って、にわとりの衣装の首元はだけさせて
鎖骨ご開帳させる家森氏は本当に罪深いよ!
サービスショットありがとうございました…)

のくた庵というネーミングセンスに爆笑し、
タラレバでも食べてたピェンロー鍋など小ネタも健在で最高だけど、
春雨切る係の諭高がかわいそうだから誰か切ってあげて!(笑)

きっとね、諭高が春雨切るのは彼の優しさとか、元美容師バイトとかもあるんでしょうけど、
彼がいろんなものに対しての「断ち切れない想い」
最もわかりやすく体現した存在だからだと思うのです。

例えばその後のシーン。
コロッケデートシンドロームに陥った別府くんによって解散されそうになるカルテットドーナツホールだけれども、
すずめちゃんが「このヴァイオリン返してからにしましょう」と言って、
まるでドラクエみたいにまきさんを探しに行くわけですが、
そのすずめちゃんの話の間、ずっと諭高は鍋から春雨ひっぱりあげたままなんだよね。誰も切ってくれないし。

それもそのはず、だって3人ともまきさんが大好きで、このカルテットという居場所を大切に想っている。
それこそ本当に切実に「断ち切れない想い」の話をしているから、
春雨は誰によっても「切られてはいけない」のだと思う。

私は前々回の8話を「嘘から出たまこと」の回だと思っていて、
その時の台詞等を引用して更に具体的に言うと、
最初は嘘で繋がっていた4人だったけれども、嘘でも言い続けて信じ続ければ現実になる、
誰かにとっての本当の気持ちになっていったじゃないか。それこそがこの物語なわけで。
それはもはやひとりで見る「片想いの夢」じゃなくなる、みんなでわかちあう「両想いの現実」になる。
まきさんは嘘の存在なんかじゃなくちゃんと3人の心の中にすみついてるし、
4人で奏でる音楽は心からの「好き」を乗せて、きちんと互いを結びつけている。


話を戻すと、だからこそこの一連の春雨のシーンは、
諭高がそっと鍋に春雨を戻して終わらなければならなかったのだと思う。
誰かが切ってもダメ、食べちゃってもダメ、
断ち切れない想いはそのままに、まきさんと再び出会わなければいけないのだから。

まじめな話をしましたが、この食事のシーン、さりげなく諭高はすずめちゃんにデートしてくれたら「幸せしかないなぁ」とか爆弾発言ぶっ放すし、春雨すするすずめちゃんとお椀持つ諭高の絶妙なタイミングに個人的には歓喜\(^^)/って感じだったし、
居場所を簡単に見つけちゃう元ストーカー別府氏はただの特定班かよ!と突っ込みたいし、横坐り&すずめちゃんに邪険にされる家森くんかわいすぎだし、
もうみんなでコロッケデートすればいいんじゃないかな!悲しい顔はもう見たくないな!って思ったただのファンでした、はい、ごめんなさい。


まきさん探しのシーン。ある意味白眉のシーンだったかもしれません。
洗濯物を干すまきさん。靴下の穴という「欠陥」を見つめ、
そう言えばイヤホンをつけるというのも耳の「穴」をふさぐ行為だし、
ここでもドーナツの穴というモチーフは健在。
そうだよまきさん、あなたという不在を埋めないと、ドーナツは要らない穴だらけになって、円でなくなってしまうよ。
懐かしい音楽がまきさんに届く。イヤホンしちゃったしもうダメかと思ったら、
風に舞うタオル、絶妙のタイミングで止まる洗濯機、本当に偶然だけどありガトーショコラ!!!って言いたくなった。

気が付いたら駆けだしていて、「音楽は前に進むだけ」だから、
今まで一度も転ばなかったまきさんは転んでも走って行く。
まきさんを見つけて手が止まる3人だけれど、演奏を再開させて彼女を引き止める。
やっぱり音楽は前に進むだけだ。
後半でも出てくるけれど、やはり「届くべきものは届く人には届く」ということをここでも表しているよう。

(余談だけど、1stが居ないのでメロディーたぶんヴィオラが弾いてたっぽいけど、
そうすると演奏再開し始めたの諭高かな?ってふと思いました。
いつだって彼は閉じた心をノックして、はじまりを作りだす人だなぁって、
今までの物語とも併せて改めて感じました。)

そして、4人で再会するシーンで涙腺が崩壊しました。泣く…泣くでしょあれは…
言葉にせずとも、触れた手や髪(綺麗な黒髪に白髪が増えてたまきさん、「グレー」だ。)から
相手の空白の時間を思いやる想像力。
9話のラストでも、まきさんとすずめちゃんが互いの孤独だった少女時代に想いを馳せる実に美しいシーンがあったけれど、ここでもまた繰り返される。

電柱に照らされた4人は、まるでスポットライトに照らされているようでした。
4人だけのささやかな、しかし待ち望んだ瞬間。
きっと今後の人生の中でも忘れられないハイライトになったはず。
舞台の大きさは関係なくて、こういった瞬間も人を前に進ませる。

すずめちゃんと諭高にハグされるまきさんを見て、「私と変わって!!!ずるい!」と思った全国の視聴者の皆さーん、
私もそう思いました。なんて素敵な誘拐なんでしょう。
ここで一番抱きつきたいはずの別府くんが抱きつかないのが切なくてまた泣ける。
「おとな」だからなのかなぁとぼんやり思いながら、甘くてほろ苦いチョコレートみたいなシーンでした。

さらっと「司くん」「諭高さん」呼びという爆弾が落とされて動揺したことはあえてスルーします笑。

せっかく4人が揃っていざ演奏しようとなったところで、空白の一年が確かに変えてしまった現実に直面したところ。
諭高「真紀さんのせいじゃないですよ、夢が終わる、音楽を趣味にするタイミングが向こうから来た」
別府「夢見て損することはなかった」
すずめ「誰が聴いてても聴いてなくても私たちが楽しければ」


あんなに音楽に、夢にしがみついていたキリギリスたちの成れの果ては、
夢をなかったことにして、アリに変わることなのか。
1話みたいにコーン茶を淹れようとしてもそれはもうここには無いように、
かつての仲間はもう居ない、不可逆なように変わってしまったのか。
しかし、そこで強行手段で夢を叶えることを提案できるまきさんのしたたかさに圧巻されました。

晒し者でも好奇の目でもそんなの私なんてことありません

こんなこと普通言えないと思うんですよ。
でもまきさんは、名前を変えるように「まさか」な人生を何度も進路変更して生き延びてきた人。
誰よりも「普通」を望み、星の舟に乗り続けて行き着いた先で得た「普通」の生活と「夢」。
だからこそ叶えたい気持ちもひとしおだったんだろうし、過酷なこの1年の間でも
その夢をきちんと忘れずに持ち続けていたのかなと。

 


いよいよ夢に向かっていくクライマックスが走り出して、ここで例の手紙が出て来るわけですが、
どうやら坂元作品には手紙が良く出て来ると指摘されていた方をお見かけしました。
私も全部ではないですがいくつか観ているのでそういえばそうかもしれないと思ったんですが。

ちょっと違う話をすると、カルテットではこの手紙をはじめ、
別府君がまきさんの不在の間のことをレコーダーに録音して吹き込んだり、
先程書いたまきさんとすずめちゃんの過去を想いやるシーンであったり、
3話での「つばめちゃん(仮名)」の過去のブログであったり、
1話のモルダウに乗せた4人の思惑の回想シーンや6~7話の巻夫妻の回想であったり、
8話のすずめちゃんの「片想いの夢」であったり…
なんだか直接の対峙ではないもの、つまり誰かが残したものを後から相手が知るということ、
思い返すということ、想像するということ…そういった「曖昧な対峙」とでも言えるものの尊さが
ずっと描かれてきたように思いました。


緊張するシーンが続く中、衣装合わせのシーンが可愛すぎてほっこりして死にそうでした公式さん本当にありがとう…
別府くんは簡単にすずめちゃんに可愛いって言うな!
変なポーズを一緒にやっちゃう諭高はすずめちゃん好きすぎだろあとパンツ履いてもズボンのチャックは締めようね!
ボーダーかぶってても着替えない=4人は特別な関係ってことだし、
段差の所で別→まき、家→すずで手を差し伸べるのもうカップルだよねお幸せに!公式尊い


あれよあれよとコンサート当日の、あの大問題のシーンですが、
あれはもう「グレー」でいいんだよ、白黒つけたらこの物語は終わるんだからナンセンスだ、というのが
私の個人的意見です。まぁ気になるけど。
殺したかどうかはわからないとして、「こぼれた」のはそれだけじゃない気がするからです。

ただ、開演前に舞台袖で各自のいつものルーティンをやる4人の中で、
うっかりもう外したりはめたりする円状のものが無いことに気付いて微笑むまきさんの表情みたいに、
ドーナツに輪の中に彼女に真の「安息」が与えられていたら良いなと、それだけは思った。


私が気になったのは、まきさんとすずめちゃんが「鏡」越しに対話していたこと。
「鏡の中の女は本性を露わにする」
というモチーフは結構いろんな作品で使われている気がするんだけど、
(例えばこないだ観た『ネオン・デーモン』とか、『シカゴ』の「Roxie」のナンバーとか、
「シャロットの女」とか、広く言えばそうなのかなと。)
このシーンもその一例だと思います。

あと、例えば7話では、幹生と再会したまきさんが口紅を引き直すシーンが、
本当は幹生が好きでたまらなくて、カルテットだって簡単に捨てそうになるくらい
まきさんの狂気を静かに表しているようだったし。

9話では、不思議の国のありすちゃんは、その後「鏡の国」を旅するアリスみたいに、
株が下落して落ち込んだ時、楽屋の鏡を見た瞬間に誘惑の秘策を思いついて自爆してた。
そしてまきさんも刑事から本名を告げられた瞬間に横顔が玄関の鏡に映っていたし。

嘘をついた女の破滅の瞬間は鏡で暴かれるんだろうか、とも思ってました。
だからこその今回は鏡の前で話さなければならなかったのかなと。

鏡と女、嘘と本性、そして死と乙女。
わかりやすく相反するものが共存する不思議の国の入り口が鏡なのかもしれません。

口紅を引くという行為が反復された後、口紅の蓋をかちっと閉めるように、あるいはぱさりと閉じられる楽譜のように、
この2人だけの濃密な空間に、永遠の秘密は隠されて、閉じられるように感じました。
ドーナツが廻り回って円になるように、閉じなければいけなかった。
だって、「おとなは秘密を守る」のだから。


30分の大曲「死と乙女」と共に、走馬灯の様に駆け巡る彼ら彼女らの日々。
それは私たちのこの「3ヶ月」でもあって、こみ上げてくるものを感じずにはいられない。

空き缶投げられても関係ない、それに打ち勝つ想いと思い出があるから。
「不可逆」ということは、戻れないだけじゃなくて「戻らない」のだから、心から溢れたものは決して無くならないはずだ。

何度も出てきた「Music for a found harmonium」で立ち弾きしてたのがめちゃくちゃ格好良くて好きなんですが、
ロングショットなので5話でタイトル出てきたところみたいに、4人がすごく小さく見える構図で似てるなぁと。
でも道端から大舞台へ、強硬手段とは言え変わって良かったなと純粋に思う気持ちと、
5話のあのシーンで第1章から第2章に切り替わる感じだったから、
今回も新しい章…ドーナツのように永遠に終わらない日々が、
またはじまるのかなと、わくわくときめく気持ちが混ざりました。


すずめちゃんがあまりに気持ちよさそうに眠ってるから、ここまで来て夢オチか?!と一瞬思ったけど、
ちゃんと記念写真が飾ってあって心底ほっとしました。(あの写真、今待ち受けにしてるくらいに大好きです)

食卓に供されるからあげとレモン、パセリのくだりでまた声が小さくなってるまきさんに、あぁいつもの光景だなと思うくらいには、
この人たちの日常がわたしたちの日常に染みついていたんだなと改めて思います。

「ここにパセリがいることを忘れちゃわないで」

パセリでこんなに盛り上がれる家森さんが面白すぎるけれど、そもそもなんなんだろうパセリって。
私はこう考えます。
あるのと無いのとで違う「パセリ」は、きっと「音楽」とか「夢」なんじゃないだろうか。

衣食住とか、政治とか経済とか、お金とか、健康とか、「ないと生きていけないもの」って沢山ありますよね。
音楽や夢ではお腹は満たされないし、それだけじゃ生きていけないものだし、別になくても人生は進む。

「世の中に優れた音楽が生まれる過程で出来た余計なもの」
「煙突から出た煙」


あの手紙の中での言葉を借りるなら、この言葉は4人の存在や音楽の不完全さを指し示すだけでなくて、
パセリみたいなものは全部あてはめることができて、捨てていいものなんだろうと。

そんなもの必要ないと考える人、あるいは誰かが発したそれが届かない人にとっては、本当に無価値なものはそれでもなぜこの世に在るのか。

そこにかすかな自分の希望や憧れや幸せを託す人が居るから、
人生を彩るかもしれないと信じる人が居るから、
そこに人生を懸けるに値すると考える人が何時の時代も生きていたからだろうと私は思います。
そういう人がきっと、「センキューパセリ」ってそっと心で言えるのだと思うのです。


ふと思ったのですが、狭義の「パセリ」は音楽や文学や演劇や映画やなんでもいいけれど、おそらく芸術や娯楽に関わることで、
人の感性や価値観に訴えかけるものだからこそ価値の基準があやふやで、その苦しさはこの物語を通して観ていれば嫌でもわかるけれど。
だからこそ、その煙みたいに見えないものをつかみたくなる、その向こう側を見たいと思わせる、そんななにかがあるから諦めきれないんだよね。

この世の中がね、もう少しキリギリスに優しかったら、というのは難しくても、
パセリみたいなものを、楽しんだり慈しんだり、そんなことができる余白や多様性があれば
もっと世界は美しくなるだろうに、と私は勝手に願ってます。

夢とかパセリの話だけでこの文章と同じくらいの分量かけそうなのでまた後日書こうかなとか思ってるくらいには、ささやかだけどすごく好きなシーンです。

そろそろこの話もお開きです。

熱海への謎の遠征に繰り出していくところで、
ここで最初にお話した「眩しい」ショットがまた入るわけです。

考えすぎかもしれないけど、また木漏れ日から別荘を見上げる4人のショットに移っていくのが
実に美しくて、あぁ終わっちゃう、どうかこの時が止まってくれればいいのにと思わずにはいられなくて。
本当にこの場所は、4人にとって「好きだってってことを忘れるくらい」「こぼれる」好きが詰まった場所だったんだなって…

だけど好きが詰まった「今ここ」を飛び出していく4人の道中。
「人生は長い、世界は広い」というのを体現しているようでした。
きっと孤独死や飢え死にしそうになっても、だらだらモラトリアムみたいな生活を続けてゆく4人が想像できる終わり方で嬉しかったです。なんなんだろう最終回でこの多幸感…
のびのび楽しそうに歌う4人を見せてくれてありがとう、本当に心の底からいとおしいです。
道に迷って、ドラクエみたいな冒険にでていく4人の背中をずっと見つめていたい。

(この私が書きなぐった文章の構成が、「眩しい」お話で円状に戻っているのはわざと・・・じゃないですたまたまです笑)

 

 

ここまで読んでくださった方はいらっしゃるんでしょうか。本当にありがとうございます。
ただ私は後悔していることがあります。それは、本腰入れて考察しはじめたのが後半からだったことです。
後半の私の一週間は、
放送を観る→その日か次の日にもう一回観て味わう→3回目で気になる点や台詞を全て書き出す→4回目で好きなシーン(ほとんど)を全部スクショしながら観る→5回目で考察を一気に文章化する
っていうのをやってました。暇人か。なにやってんだ。
それを前半からやっていれば少しは深い視点を持てたかと思いまして。

というわけで、これから公式オンデマンドに課金して全部観直して全部考察しなおすのをやろうと思っているので、
そのうちここにも書いていこうと思っています。
ただの自己満ですが、もし読んでくだされば泣いて喜ぶので頑張ります。

いったんここで幕引き。