je joue

好きだってことを忘れるくらいの好き

Q : A Night At The Kabuki

(Twitterには長すぎて、記事にするには短い程度の感想ですが。

よかったらどうぞ。)

 

私が ”演劇”というものに強く興味を持ったのは、紛れもなく野田秀樹さんの『エッグ』の初演(2012年)をたまたま観たことから始まりました。

高校生までミュージカルが好きで、幼少の頃生まれて初めて観たのもミュージカルだった私が、大学に入り演劇や映画のことをなんとなく考えて惹かれるようになった矢先に観たのが『エッグ』で、たちまちストレートプレイの舞台ってこんなに面白かったのか!と虜になりました。

大学生だったから時間もあったし、当日券で並んで初演時は3回観たし、再演も観てたなあ。

初演の千秋楽の日は同じ学部の友人を誘って朝から延々と並んで観て、その友人たちもひどく感化されて戯曲の載っている新潮の最新号を片手に、夜まで喫茶店はしごしてテキストを読み込んだりしてました。

それくらい、私にとって言葉が身体を持って立ち上がる瞬間というのは全然知らなかった世界で、すごくすごく面白かった。

 

そこから7年ですっかり舞台通いが普通になって、いろんな舞台もそれなりに観てきた私には、昔ほどの新鮮な感覚が薄れている自覚こそあれど、やはり観てきたものについて反芻する時間ほど幸福なものはないのです。今回もそう。

 

 

前置きが長くなりました。ここからネタバレです。

(新潮収録の戯曲は未読です。)

 

 

 

「『運命』は、『人生』を生きた一人一人にあり、違った『運命』を持っていることが、きっと幸福なのである。

大量の人間が、ひとくくりで、同じ『運命』を背負わされるとき、そこでは、一人一人の『人生』が失われている。」

というパンフの中の野田さんの言葉の通りだった。

 

そもそも一幕の最後で、届かない手紙として宙に放たれる紙飛行機が、大挙して押し寄せると戦闘機の群れにしか見えなくなる、その見立てに恐ろしく震えながら嫌な予感はしてた。*1

それから愁里愛が尼寺に行くシーンで、源氏の女たちが同じバスに乗ってどこかに行こうとする。それだけで、これ絶対行き先尼寺という名の違う何かだろうな…となんとなく勘づいたところがあったし、

そのあと、汽車*2に乗って時空を超えるところで、あぁやっぱり今回も先の大戦の話が絡んでくるのかと納得しました。

 

『エッグ』を執筆されたときに入りきなかった話を『Q』にしたと野田さんも仰っていて、それは観劇後に知ったけど確かにそう感じられる箇所が随所にあったように感じました。

そこで思い出したのが、もうすぐ最終回を迎える大河ドラマ『いだてん』の中で、主要人物である落語家五りんの父である小松勝というフィクションの人物のことでした。

彼は、主役の一人である金栗四三の弟子で有望なマラソン選手でしたが、結婚しのちの五りんとなる息子が生まれて数年後に学徒出陣で出兵します。

彼の顛末が描かれ、かつ『いだてん』の構想の原点となったらしい古今亭志ん生満州時代を描いた回である第39回を観ると、すごくリンクする部分があるように思います。

第39回「懐かしの満州」| あらすじ | NHK大河ドラマ『いだてん 〜東京オリムピック噺(ばなし)〜』

 

『Q』の中でも、瑯壬生が戦場で殺されそうになると「戦争は終わった」とのことでその場では殺されずに済みます。でも「戦争は終わったその日に終わるわけではない」というような台詞が出てきていたと思います。

『いだてん』ではその通りの展開で、終戦後の方が満州にいた日本人は大変だったと。ソ連軍から追われ、それまで同じ地に暮らしていた中国人からも命を狙われるという。その混乱の中で小松は殺されてしまうという展開でした。

瑯壬生も結局シベリアならぬ滑野に抑留されてしまうわけで、”戦争”とひとくくりにしても、キャピュレット家とモンタギュー家、平家と源氏の戦いから、70年前の世界大戦まで、戦いの大小と戦中戦後なのか、現実なのかフィクションなのか*3を問わず、人の繰り返す歴史はいかに同じことで、いかに愚かで悲しいことかがすごくよく分かるようになっている気がするのです。

 

 

さて、そのほかの要素に関してですが、歌舞伎方面およびQUEENに関してはほぼ私の知識がないので、伝統芸能的な演出*4それこそ音楽の存在感や意味をほぼ聴き流してしまったように思います。”Mama, just killed a man.”のところが、人を殺める瑯壬生と重なるくらいは流石に分かったけど。

 

もともと松たか子さんがめちゃくちゃに好きなのですが、やはり野田さんの舞台のあのとんでもないスピード感と台詞の多さの中でダントツで台詞聞き取れるし、どんなに浮世離れした役であっても違和感を感じたことがなくて、本当に凄い役者さんだと認識し直しました。

地鳥棒ならぬ自撮り棒で人をぶん殴るシーンが何回かあったけど、ちょっとエキセントリックで猟奇的だったり何者かよく分からなかったりする役柄すごく似合いますよね…『カルテット』の真紀さんの時、黒目から光を失ってる感じとか一切感情が読み取れない感じ、ぞくぞくというか”みぞみぞ”してヤバかったんですけど、それに似たものが今回もあったような。

 

ラストシーンで、おそらくバルコニーに見立てたベッドに立つ若き愁里愛の元に、若き瑯壬生が駆け寄っていって抱きしめるんですけど、そのままの位置で愁里愛が”それからの愁里愛”にすり代わって、次に”それからの瑯壬生”に代わって、最後の最後に”それからの二人”が身を寄せ合うんですけどね、そこの一瞬で少しこみ上げてくるものがありました。

二幕だと元・若い二人が”おもかげ”となって運命を変えようとするところもあるんですが、やはり未来の自分である”それからの”の二人の方が運命を分かっている分必死で変えようとするんだけど、結局元あった運命と同じような流れに無意識にしちゃってたりとか、運命を変えられても違う運命に飲み込まれたりとか、そういう流れを全部見てきてからのラストなので、正直私は若いお二人より大人の二人が寄り添うシーンの方がすごく哀しくて、でも美しくて、この世にこの二人にこのひとときが在ってくれたらって一瞬だけでも願わずにはいられなかったです。*5

 

しかも、観劇中忘れかけてたんですけど、この話ってそれからの愁里愛の妄想なんだよね…最初の方でさらっと触れられてたけど…それを踏まえて観ると尚更やりきれない気持ちになる。

その思い描いた世界のまま美しく終わってほしいけれど、きちんと”名もなき兵士たち”の無数の骸も最後に提示してこの劇が終わるのが良いなと。瑯壬生の亡骸を運んでた兵士たちも結局最後その骸の中に入っていたし、まさに諸行無常

かつて家柄ゆえに”貴方に名前を捨ててほしい”と願ったことが、最後に仇になる哀しさも描いている。それこそ大河や時代劇なんかを観ていても思うけれど、歴史に(様々な意味で)名を残す人々だけでなく、そこに刻まれずとも名前を持った一人一人の人生と運命の積み重ねこそ私たちの生きる今であり、歴史であると忘れてはいけないのだと。*6

*1:今回も道具の使い方が素敵だった…

ベッド→船の見立てもだし、布を使った美しい流れと人物転換は本当に素晴らしかったです。

*2:そういえば『エッグ』でも汽笛の音で物語が始まっていたな…あれは寺山修二からも引用されてましたね

*3:Bohemian Rhapsodyの冒頭よろしく

*4:是枝監督が稽古場を見学されレポをお書きになっていたのですが、そこで言及されてたけど場面転換の際の黒子を見せるのって確かに日本の古典芸能らしいかも。私は普段ミュージカルやダンスの公演観たりとか、それこそケラさんの舞台とか観てるとめっちゃ転換を美しく見せることも内容の一部になってたりするので、きっちり暗転する舞台の方が慣れてないかも・・・と思うといかに自分の感覚がズレてたかを思い知ったりしました、実は。

*5:あとは若い二人は一応一晩だけ契りを交わしたシーンが入ってたというのもあるかも。それからの二人は結局再会らしい再会はできてないのだから。

*6:余談ですが、先に観劇した知人が今回本人確認がめちゃくちゃ厳しかったことに対して、「こういう物語だからこそ本当の名以外を名乗るなということなんじゃないか」と話していてなるほど!と思った。