je joue

好きだってことを忘れるくらいの好き

『ロマンスドール』

大学時代に、少しだけ人形というものに興味を持っていたことがあった。

江戸川乱歩の『人でなしの恋』が大好きで、ハンス・ベルメール球体関節人形の写真集を図書館でよく読んでいた。

同じ学部の女友達と「オリエント工業のドールってめっちゃきれいだよね」と盛り上がり、一度実物を拝見したいものだと話していたのが10年弱前の話である。

そして、2020年になってようやく人形、とりわけ"ラブドール"の神秘的な美しさと、その身体に宿ったり重ねられたりする様々な人間の欲望や切実な想いを、銀幕の中に完璧に封じ込めた形で目にすることができた。

私は既に3度観たけれど、3回とも心の中に溢れ出す感情のうねりを感じた。毎回エンドロールの仄暗さの中、ただ身を任せて静かに涙するしか無かった。

2020年始まったばかりなのに、『マリッジ・ストーリー』と『ロマンスドール』でもう夫婦もの・恋愛ものという映画を飛び越えて"濃密な人間関係”の映画として優勝という感じで、今年の映画界はどうなってしまうのだろうと期待してしまうくらいだ。

 

 

 

【映画を構成する要素について】

早い段階で、ビジュアルカラーが"スモーキーブルー"であると告知され、主演のお二人が寄り添うあの美しいポスタービジュアルを目にする度に、とても心惹かれるものを感じていた。

作品自体も、フィルム撮影によって画全体がやわらかで、まるで薄膜がかかっているような質感。

暴いてはいけない他人の秘密を、一膜ずつ捲って覗いてしまうような背徳感もあれば、本作は終始哲雄の視点というフィルターのかかったファンタジーとして、どこか現実離れした浮遊感を感じさせる効果もあるように思った。

照明やカラリストさんの仕事が素晴らしく、二人の関係性が画面全体の光の色調で見て取れるようになっている。

つまり、新婚の頃や互いの気持ちが通い合っているセックスシーンではあたたかみのある暖色の色調で、秘密と嘘ですれ違っているシーンでは冷たい色調。

興味深いのが、久保田商会のシーンは基本的に暗めの色調な点。工場ゆえにもともと暗い場所なのだろうけど、性と生にまつわるラブドールを生み出す場所なのに対照的なのが面白い。

久保田商会の面々が本当にチャーミングで面白くて、でも仕事はプロフェッショナルな素敵な人々だから、その眩しさと併せると釣り合いが取れるのかも。

 

視覚面だと衣装も特徴的で、特に園子の服の"青"と"黄"のコントラストが目を引いた。

最初に哲雄と園子が出会うシーンでのコートや、余命わずかになってからベッドの上で纏っているキャミソールワンピースは、まさに"スモーキーブルー"色。パンフレットによると、衣装部さんが生地から染めているそう。

がんを告げる早朝のシーンのセーターやお弁当デートのコートはからし色のような鮮やかな黄色。そして、出会いのシーンでも薄青のコートの下は黄色のセーターなのだ。

基本的に園子は儚いイメージとして描かれている。それは本作が哲雄の個人的視点であって、ラストの哲雄の独白にもあるように彼女に「美人」「貞淑」というイメージを持っていた。加えて、園子は確実に死に向かっていく生き物だ。

これは個人的見解でしかないけれど、そういった複数のイメージの象徴として、儚さを表す記号的な色としての青だったのかなと。

かつ、出会いのシーンで"青のコート"が"黄色のセーター"を内包しているというのは、やがて死が生を制してしまうという彼女の運命を予告しているようにも感じたし、園子の未だ知らぬ面…隠れた芯の強さや生命力や愛らしさや人としてダメな点も含め、哲雄や鑑賞者である私たちがこれから知っていく園子そのもののようにも思えた。だからこそ、後半で秘密と嘘を曝し、二人の関係が良くなっていく場面で、ふたたび黄色が多用されていたのかなと想像した。

 

その他では、朽ちかけの桜の花や蝉の鳴き声など、やはり儚さや死を想起させるモチーフが挿入されつつ、とにかく食欲と性欲が満たされるような場面が多かったなと。

なかしましほさんによる美味しそうなご飯を囲む食卓のシーンはもちろん、お弁当が愛妻弁当かコンビニ弁当かで二人の関係性が見て取れる。

相川さんが薄汚れた手で差し出した一切れのようかんや、田代さんが「キンキンそっくり」にドール造りに励む哲雄にくれた飴ちゃんや、開発に行き詰まった哲雄が「相川さんいただきますね」と口にするお供え物の大福。

園子の外泊時に一人でかき込むインスタント麺、いきつけの飲み屋での相川さんとの会話、ひろ子とのカラオケで机に置かれたジャンクフードたち。一方で、園子の死後飲まず食わずでドールを完成させる哲雄…

食べ物そのものや、それを囲むシチュエーションは、無言のうちに人の状況や心情を雄弁に語るのだと、ごく当たり前のことだが多様な食のシーンによって改めてそれを認識した。

でもやっぱり、園子の手作りごはんが一番おいしそうだし、二人でそれを囲んでいる多幸感も素敵な瞬間の一つだった。

 

性欲については後述するとして、もう一つの欲=睡眠に関してだが、劇中で文字通り眠っている人というのは二人しか出てこないはず。

職場のソファでうたた寝してしまった相川さんと、哲雄の帰りを待ってうたた寝してしまった園子である。(新婚時に哲雄も疲れて寝そうにはなっているけれど。)

この二人は劇中で亡くなってしまう人間でもあって、その点で関係があるのかな?と憶測ではあるが引っかかった。

 

 

【ドールを造るという行為】

 

さて、初めて哲雄が久保田商会にやってきた時、相川さんが歴代のラブドールの解説をしてくださっていたシーンがあった。お金目当てに弟子入りを承諾し、羊羹を頬張る哲雄がふとドールの足元を見遣ると、木札に筆で「一九八〇年代製 おもかげ」と書いてある。

私は初めて観た時から、この「おもかげ」という名前がすごく印象に残っていた。「思い出」とか「うつしみ」とか「はなこ」とかそういう名前じゃないんだって。なんて素敵な名前なのだろうと。

そして、上映後にパンフレット内のみうらじゅんさんとリリーフランキーさんの"ドーラー対談"のページで、「面影」がオリエント工業の初期のドールのお名前で「昔の金持ちや偉い方の娘や妻が死んだ時に人形を作ってる」というドールの歴史を知り、とても腑に落ちた。(ちなみに「面影」の次のドールの名前は「影身」らしい。素晴らしいネーミングセンス。詳しくはこちらに https://www.mazimazi-party.com/entry/orient-industry-lovedoll/)

哲雄が園子から「そのこ1号」を造る主たる目的は、まさにその園子の「おもかげ」を永遠に留めるゆえであると考えると、彼が伝説のドールを作り上げる行為はドールの正統な歴史そのものをなぞり、反復し、再現していることになる。

そのきっかけは、園子から「私を作って」と懇願されることだった。彼女の生前においては、それは互いに触れ合うことで身体の細やかな細部までいつくしみ、その存在を確かめ合うことと、身体を重ねる度に永遠の別れに向かっていくこと、矛盾する2つの意味を持った性行為を重ね、反復してゆくことだった。そして生前から死後にかけては、園子のおもかげを再現するドールを造ることによって、それを達成しようとしていた。

結婚指輪がゆるくなってしまう程にやせ細ってゆく園子の姿は、観ているこちらも痛ましくなる。しかし、どんどん体重が軽くなり空っぽになっていく身体に対して、型にシリコンを注いでいくドール造りや、文字通り身体の中に入っていくセックスは、物理的にも相反するイメージが重なっていく。そして、同時にその身体に哲雄はありったけの愛情もきっと注いでいるつもりで、園子もそれを分かって受け止めていたのだろう。

 

しかし、哲雄が園子の"ドールを造る"という行為は、果たして人間の再現になるのだろうか。どんな意味を持つのだろうか。

劇中でその答えは提示されているとは思うが、ここで公式パンフレットやキネマ旬報に記載されていた、高橋一生さんのインタビューを引用したい。

すなわち「本作はどんな映画だと思いますか?」という問いに対して、「絶望の物語」あるいは「絶望の波及攻撃」と語っているのである。

正直私自身は初見時にそういった感想は全く抱かなかったので、かなり衝撃的で脳天をハンマーで殴られたような感覚だった。

確かに、妻のドールを造るなんて「狂気」でしかないし、観返してみると「そのこ1号」が完売してしまった「よくわからない罪悪感と達成感」が、そのシーンの哲雄の表情からきちんと見て取れる芝居をしていることが感じられる。

洗濯機に頭を突っ込んでいるシーンなんて何度観てもつらいし、ドールが完成した後も彼の人生は続いていくという事実を考えると、決して明るい話ではない。

結末に関しては、「なんとなく空を見上げるように希望を見出していく話として作られているので、"絶望しないとわからない、その先”がきちんと描かれている」と話しているが、

ここで後述のラストシーン、すなわち海のシーンと、劇中何度も挿入される空のショットが意味を成してくるように思う。

個人的に、本作のビジュアルカラーゆえに青を想起させる空を多用したのかと思っていたのだけれど、最終的にあれは"哲雄が見ていた空”だったのではないかと思った。

もちろん哲雄の視点から語られる物語なのだから当たり前なのだが、きっと最初は何気なく日常の中で見上げていた空が、思い通りにいかない人生を重ねてゆく度にどんどん違う意味を帯びてきたのだろう。

その時間経過と心情の変化が最後で解き明かされ、鑑賞者にも腑に落ちるようにするためのモチーフだったのではないだろうか。

 

話が脱線したが、"ドールを造る”という行為は決して生身の人間の再現にはならない。

それは、哲雄が「そのこ1号」を抱こうとした夜に、そのこの顔にひとしずく落とされる涙の粒で、もう明らかになってしまう。

しかし、同時に「てっちゃん」と優しく呼ぶ園子の声が、唇に触れる体温が、頬を包む細い手が、一瞬だけでも哲雄の中に「おもかげ」が溢れ出た。

皮肉かもしれないけれど、「噓から出たまこと」という言葉の通りで、ドールという噓の身体と、哲雄と園子が互いに抱いた嘘や秘密と生身の身体を介して、

ふたりはやっと「まこと」に辿り着いたのではないだろうか。

 

また、二つ目の意味として「そのこ1号」=究極のドールであり、かつてその完成を試みた相川さんを継承するという点も忘れてはならないと思う。

それは師匠の技術を継ぐということでもあり、ほほえましくユーモアに満ちたやりとりで笑わせてくれた相川さんの「おもかげ」、遺志も引き継ぐということでもある。

だからこそ、途中で「キンキンにそっくり」と哲雄に声をかけた田代さんのあのシーンすら、思い返すと胸が詰まるような思いになってしまう。田代さんは哲雄を通してキンキンを思い出したわけだし、彼女含め久保田商会の面々も完成したドールを見て最後にそれを感じ取ったはずだ。もちろんそこで「園子ちゃんそっくり」と涙している田代さんも居て、周りの皆だって園子の「おもかげ」も同時に感じているはずだ。

 

 

【ラストシーンについて】

 

海辺で男子学生たちと流れ着いたダッチワイフを囲むシーンで、「大人って楽しいぞぉ〜」とさぞかし楽しそうにキャッキャしてるのだけども、ここまで映画を観ていればおそらく哲雄は「大人って(めちゃくちゃ悲しくて辛いことばかりだし、手に入らないものも多けれど、それでも)楽しいぞぉ〜」って本当は言ってるんだろうなと勝手に心中を想像せざるを得ないのである。これこそ"行間案件"だ。

学生たちと別れ、海の方へと砂浜を歩く哲雄。陸と海の境はまるであの世とのあわいのような境界線だ。その淵を歩く彼を、ここでも海と空のやさしい"スモーキーブルー"の色調が包み込む。そんな中、ラストの台詞が「スケベでいい奥さんだった」と、あまりに俗っぽい言葉で締められるのがまた良い。つまり、最後まで「なんとなく空を見上げるように希望を見出していく話」なのだ。

あんなに互いに嘘や秘密を重ねながらも、周囲に"完璧な奥さん"に捉えられ続けていた園子の"誰も知りえない秘密"がそれかい!と思いつつ、そのくだらなさこそに愛情が滲み出ているようにも感じられた。

(ちなみに演じていた一生さんも、一番最後が一番好きなセリフだと舞台挨拶で仰っていた。)

 

そのままネバヤンの主題歌、つまり一生さんの弟さんでもある安部さんのお声が聴こえてくるエンドロール。

本当にズルい。ズルすぎるよ。

本作を観て音楽を聴くとまた歌詞の響き方が全然違うし、やさしく包み込むようで浮遊感のある音色の重なりが、映画館の真っ暗闇をそっとたゆたい、一度引いた涙腺がそっと緩んでしまった。仄暗いあの空間に身を任せ、ただ涙するだけだった。

エンドロールを観てすごく良い映画を観たなってじわじわ感じられる、その瞬間のために映画館に足を運ぶ。貴重な映画体験だ。映画館でこそ観るべき作品だと思った。

 

 

 【キャストについて】

 

キャストもスタッフも全員素晴らしく、舞台挨拶で蒼井優さんが温かいけれど各セクションがきちっと仕事をするプロフェッショナルな現場というような話をされていて、本当にその通りなんだろうなと作品からも感じ取れたが、きたろうさんと渡辺えりさんの夫婦漫才のようなやり取りと、脇で見せる芝居の純度の高さはもうあえて書きませんが、とにかく初日舞台挨拶が楽しかったです…あんなに面白くていいのか!

そして、特にピエール瀧さんの出演シーン、多分全く削ってなさそう、というか削れないよなあと思うくらい印象に残った。お洒落さと怪しさが共存しながらも、職人に対して「とことんやれよ」と背中を押す姿、ラブドールへの飽くなき理想を求める姿(ドールの乳を揉みながら、ではあるが)、サツにしょっぴかれるシーンですらスマートに連れていかれる。元警察官なのにね、と笑いもきちんと掻っ攫う。とにかく"粋"というものを全身で体現したような素晴らしい役だった。採算、効率、コンプライアンス等、現代社会で重視されがちなものから外れた余白に宿る、いわば"ラブドール=芸術"の庇護者なのだと思う。

それから一瞬だけだったけど、刑事役が似合いすぎる大倉孝二さん。『カルテット』や『怪奇恋愛作戦』等、他作品も含めゆるくてふしぎな刑事役が似合いすぎる。もっとあのゆるーいやりとり見ていたかった。贅沢な使い方。

その刑事さんの「なんでこんなリアルに作っちゃうの、バカなの?」という台詞がすごく好きだ。あとSNSに書かれた「こいつら(=久保田商会の人達)バカでサイコー!」という一文も。

そうなんだよ、バカなんですこの人たち。ラブドールは本物の人間ではないし、リアルに作りすぎたら捕まる。それでも、そのリアリティに人生とプライドを賭けて作っている人が居て、そのドールを本物の人間同様に大切に愛する人たちが居る。

これはもう"芸術"なんです。無くてもいいものだけど、この世にあってほしいものを生み出している、その尊さに何度も胸が震えたし、それを愛情をもって「バカ」と評する人たちが居る世界が素敵だと思った。

 

個人としては高橋一生さんが大好きで、普段からそのご活躍を追って喜んでいるファンではあるけれど、それを抜きにしてもおそらく代表作の一つになるだろうと思わずにはいられなかった。舞台挨拶の際に「口コミで広がってほしいとは言わない、全体のストーリーなど覚えてなくていい。一瞬でも何か残るものがあればいいし、ひとりひとりが観て純粋に何か感じていただければ」というようなことを仰っていて、すごく一生さんらしいなと思った。

というのも、絶頂の後に園子の亡骸を抱いている時、そしてそのこ1号を抱こうとして涙が止まらなくなってしまった時、その泣き顔があまりに脳裏に焼き付いて離れないからだ。

永遠なんてどこにもないのだと、悟って、顔を歪めて、大の大人が嗚咽交じりに泣くしかない姿。あの横顔を、私はきっと一生忘れないだろう。

直近の出演映画『引っ越し大名』でも豪快な槍捌きに「銀幕スタァ」として惚れ惚れしたが、今回の芝居は彼の真骨頂のように思い、重ねて「この人の芝居はスクリーンでこそ映える」と思わざるを得なかった。

あぁこの人の芝居をずっと見ていたい、こんな芝居をする人を好きになって当然だったなと心から思った。

 

最後に、

人はあやまちを犯しながら、いつだって欲しいものはあとからついてくるのでしょう。

その愚かさと愛らしさを宿した、あの滑らかな肌色に満ち満ちた生命を

ただただ祝福し、いつくしみたくなりました。