※原作既読、テレビシリーズ全て視聴済
※5/18(木)最速先行上映会、5/27(土)舞台挨拶付き中継
※批評的部分とファンの感想部分が混ざっています。文体も変えてます。
NHKドラマシリーズからの圧倒的なクオリティと世界観が強靭な
むしろこれは映画でやるべきスケールだなと思うほど、
タイトル通りのルーヴル美術館のその存在そのものの美しさ、
また、今回のテーマである「黒」になぞらえるならば、
(ぜひ映画館で観てください!)
ドラマシリーズの怪奇さはそのままに、少しエモーショナルで、
↓↓↓以下、ネタバレ↓↓↓
【小ネタと感想】
カメラワーク
ドラマシリーズから多用されていた、低い位置から見上げたり、
映画館の前方に座っていると、本当に露伴先生に見下げられながら “ヘブンズ・ドアー”されている気持ちになる。
お家芸
オークションで競っている時ににやにやする表情が露伴先生だし
帰ってからあのバイヤー(?)が侵入してきた時、歩きながら指先
パリの記憶をたどって
パリパートの最初で、
あとルーヴルってあんな空いてることないです…平日でもなかなか
衣装
最高なのは毎回のことですが、今回のパリ滞在時の衣装が露伴と泉と真っ黒に統一されていて凄く良かった。ルーヴルの壮麗で豪華な建築・収蔵品、パリの歴史ある美しい街並みと曇天を背景にしたときに、シンプルだからこそ映える。
特に露伴の黒タイのお衣装めちゃくちゃ好きだなと…「先人の作品の眠る場所だ(中略)敬意を払え」という台詞通り、より畏まったスタイルになっているのと、単純に高橋露伴先生に似合っていて…
ちなみに、キラリナ吉祥寺で衣装の本物を直接拝見できて震えた…タイが通せるようになっているブラウスの首元とか、アウトしているけど下は黒くなっているブラウスとベルトの部分とか、Gペンモチーフ靴とか…
テレビシリーズからのつながり
テレビシリーズの『くしゃがら』の時の、路地裏で十五と対峙した時のあの「これぞジョジョ立ち!」ポーズは、『ルーヴルへ行く』原作の、まさにルーヴルに降り立った時の両開きページのあのポーズを取り入れていたと高橋さんが明かしていて、一瞬で全てがつながってうわあああああ!と驚いた。
その際に映画化が完全に決まっていたわけではないようだし、伏線とも違うが、壮大な回収…!
セルフ“ヘブンズ・ドアー”の威力
原作にあったシーンなのに、
ヘブンズ・ドアーするとちゃんと文字が消えて真っ白になり、「
考えてみれば当たり前ではあるが、
フランス語について
ルグランの絵の背面部分が一瞬しか映らないので、最初あまりよく読めていなかったのだが、ルグランの走り書きは以下かなと。
"Ceci est le noir vu au Louvre. remords" (ルーヴルで見た黒、後悔)
そもそもオークションの冊子に記載されていた作品名が"Noire"つまり女性形なのが気になった。
普通に「黒」という色だけでタイトルをつけるなら男性形"Noir"が妥当だと思うが、描かれている対象=「黒い絵」に描かれているのが女性(奈々瀬)であることを暗に示しているのかなと推察した。
ただし、黒髪(Cheveux noirs)は複数形なので除くとして、蜘蛛(Araignée)は女性形なのでそちらを指しているのかもしれないが。
登場人物に関しては、エマさんのフランス語が、
例えば、Louvreのrの発音をわざとネイティブにしている癖の強さとか、モナ・リザの前でのやりとりでいきなりフランス語(「でも…」を“Mais,ah…”と言い澱む)が入ったりするところ。
本当に両方の国にルーツを持つ美波さんが演じられていてよかったし、ご本人も両方の国が舞台になる作品に出演されるのは初めてと仰っていた。
そして度肝を抜かれたのが、祖母の形見のあの眼鏡(サングラス?)をかけて、フランス語をペラペラと話し出す露伴、つまり一生さんである…オイオイオイオイそんな設定聞いてないよォ…
少なくとも数年勉強している私より全然流暢でした(お前がもっと頑張れという話)
個人的に印象的だったのが、Z-13倉庫でフェルメールの絵が見つかり処分しようと持ち去る消防士を引き留めるシーン。
”Pourquoi?(とんでもない)”と話しながら挑発するような露伴の目つき・表情と発音、けしからんのでめちゃくちゃ集中して観ていただきたい…
【音楽について】
青年期の露伴パートの音楽
とても変わっていて面白かった。伝統ある旅館の佇まいと日本らし
しかし、ガムランの不思議な音色がそこに乗ることで、
個人的に、元々ガムランの音色すごく好きで、
多様な劇伴
上述の日本パートの最後の方でバロックっぽいなーと思う曲があり
白眉はラストの江戸時代パートの音楽。
テレビシリーズからお馴染みの『大空位時代』
岸辺露伴と言えば、
【泉とエマ】
原作にはなかった泉とエマのシーンが一筋の光のような救済に感じ
そもそもエマは原作では助からないし、泉は出て来すらしない。(
泉が黒い絵の中の女を見てもなんともなかったことを、
しかし、泉京香自身は勿論祖先含め、泉家には後悔や罪の意識を
あれだけルーヴルの関係者達が悉く襲われ、
だからこそ、謂わば「泉家が脈々と継ぐ善性」
それは、今は居ないニコニコと記念写真に収まる父の「
断ち切れない呪いをかける“血脈”はまた他方で、
【仁左右衛門パートの功績】
今回の映画化において終盤の江戸時代の日本パートの追加こそ、きっと多くの方の印象に強く刻まれた白眉のシーンではないだろうか。
原作では殆ど触れられなかった仁左右衛門と奈々瀬の真実を膨らませ、そのパートをきちんと映像化したこと。
況してや、仁左右衛門の顔はわからないように描かれていた中で、露伴とよく似ている顔である=高橋一生の一人二役とする英断。
英断と感じた理由として、まず露伴と仁左右衛門の顔が似ていることで、原作とは違ってZ-13倉庫で奈々瀬が露伴を救う展開に納得が行く。
夫の面影があり、更に同じ絵を描くことを生業とする露伴ならば、自分たちを止めてもらえるかもしれない、この人にこそ止めてほしいと考えても不思議ではないと思うし、
夫と同じ顔の露伴を夫が襲うという状況も受け入れられるものではなかっただろう。
加えて、仁左右衛門と露伴を演じ分けられるのは高橋さんの芝居の凄みありきであること。
このパートの冒頭の祝言の場面で、手前に居る奈々瀬から奥に居る仁左右衛門の顔にピントが合った瞬間―つまり、【仁左右衛門 (演・高橋一生)】がわかった瞬間、『おんな城主直虎』の小野但馬守政次を連想した方が大半ではないだろうか。
何故なら、一世一代の伝説的な芝居と言っても過言ではなかった政次と同じ、月代に髷姿の高橋一生をそこに見てしまったからだ。
実は前半の日本パートにて、奈々瀬が露伴に「似ている」と話す台詞が加わっていたために、その時点でもしかしたら仁左右衛門も演じるのか…?と想像していたのだが、実際のシーンは想像の範疇を軽く超えるものだった。
自分の顔とそっくりな仁左右衛門を見てゆっくり目を閉じる露伴、手前から奥へとピントが移ったあの一連のシークエンスを観た時の衝撃と、全身を駆け巡った感情のうねりを、私は一生忘れないと思う。
個人的には“一生さんのファン=イセクラ”の端くれとして、あのパートに“俺たちの見たい高橋一生”が全部詰
絵師として純粋に画法を追求する真剣な横顔と筆を運ぶ手先、奈々瀬を大切に想うことがわかるやさしい眼差し。
一転して不遇の境地に追い込まれ、更に奈々瀬の黒髪を描くことや黒い樹液に取りつかれた姿。
後ろ手に拘束される姿、奈々瀬の手を取ろうとしながら呻く声、奉行所の者たちを押しのけ殺してしまうほどの勢い、神木に向かって一心不乱に斧を下ろし真っ黒に染まりながら筆を取る姿、黒染めの顔と閉ざされた眼に一筋流れる涙(一生さんのお芝居で自然とそうなったとのこと…!)、気付けば蜘蛛の巣だらけの住まいに二人寄り添う姿…
本来はきっと優しく真っすぐな方だったのだろう。そんな一人の人間が追い込まれて変容するその落差と同時に、グラデーションのように移ろっていく一人の人間の人生として見せる。
「狂気」と一言で言ってしまうには惜しいくらい、その表現のバリエーションに改めて感服した。
余談だが、人物デザイン監修と衣装監修の柘植さんの描かれた仁左右衛門のスケッチがパンフに収められているのだが、見た瞬間にエゴン・シーレの絵みたいだなと思った。
何かに憑りつかれ、人
この配役の妙と芝居の凄みは、高橋さんご本人の岸辺露伴への愛情だけでなく、
すなわち、渡辺監督と高橋さんの一連の共作(露伴
漫画である原作を補いながらスケールアップさせ、“高橋一生の演じる岸辺露伴”を主役に据えるべき理由と、物語の説得力・訴求力を確かに強靭にすること。映画でしかできないことを実現させること。
脚
お二人の仕事をリアルタイムで追ってこられたことをとても嬉しく思う。そういったファンが堪らないような、思わず心が震えてしまうような最高傑作が出来上がっていると感じた。
また、付け加えておきたいのが、先行上映会にてサプライズでご登壇された際にも、
本作は『岸辺露伴ルーヴルへ行く』というタイトルであるが、真髄はルーヴル美術館だけでなく日本で撮影された2つのパートにもしっかりと存在していたと思う。
露伴が“読む”仁左右衛門パートも、もはやノスタルジーを超えたリアリティを伴った悲痛な哀しい先祖の歴史を、日本の原風景のような緑の中に映していた。
あれだけ壮麗なルーヴルやパリの街並みと、黒い絵が人に作用する強さと恐ろしさに負けず、強烈な印象を刻み込んでくるのは流石としか言いようがない。
物語からしても、仁左右衛門と奈々瀬の過去から始まっている、
【「この世で最も黒い絵」の結末】
「黒い絵」が最後に燃えて無くなるのが、
原作では焼却処分されたらしいとの曖昧な記載に留まっているとこ
そもそも怨念で人が死んでいくのを断ち切るには、
そこでどうやって無くなるのかを考えたときに、露伴邸での会話を
それから、ヘブンズ・
それを木の根元にそっと置いて、
つまり、「黒い絵」は炭というやはり“黒い”物体になっていて、
露伴があの絵とルーヴルで対峙し、ヘブンズ・
それを経た後だからこそ、その呪縛からの解放を示す象徴として、
(注:何度か観た上で気づいたのですが、あの木は神木でなく、墓石のような何かがある木という解釈のようですね…?ちょっと上述の解釈に無理が生じるかもしれませんが、違う場所でも奈々瀬のその行為には意味があったと捉えたいです)
露伴自身も、かつては奈々瀬の心を読むことを踏みとどまったが、時を経て年齢を重ねたことや、ルーヴルでの一件を経てやっと読むことができている。
彼自身も良い意味で過去から距離を取り、「あの夏も僕にとって必要な過去の一つだ」と認めることができる時間が必要だったのだと思う。
奈々瀬が自分から手を添えてヘブンズ・ドアーに導くその一連の流れの美しさと、そこに至るまでの長い長い時間を想うと、込み上げてくるものがあった。
本当のラストでも、あの原稿をきれいな形のまま露伴に“返した”と受け取れるのも、本当に解放されたことを予感させる終わり方でとても良かった。
【ルーヴルで交差する芸術家たち】
「両親が付けてくれた名で―『露』ははかなきもの―『伴』はともにすごす」
漫画は一例なのかもしれないが、そんな「はかなきもの」のためには何をも厭わない露伴という人物は、ルグランや仁左右衛門など様々な芸術家が叶えられなかった理想的な芸術家の一人なのではないかと思う。
また、彼が両親からもらったと言うそんな名前に想いを馳せるとき、やはりこの物語は大元から血脈の物語だったことを、更に強く感じられはしないだろうか。
最後に、公開記念舞台挨拶にて、「俳優として、この『はかないもの』と共に過ごしていきたい」と、この名前の由来を引用して高橋さんが挨拶をされたことも覚えておきたい。(とても素晴らしいのでぜひ全文をお読みください)
映画「岸辺露伴 ルーヴルへ行く」の公開記念舞台あいさつ(5月27日)では #高橋一生 さんがフォトセッション前に「締めのあいさつ」を行いました。高橋さんの思いが詰まった主な言葉を、これから4回に分けて紹介します。#岸辺露伴ルーヴルへ行く
— JIJIPRESS ENTERTAINMENT NEWS/時事通信エンタメニュース (@jijicom_ent) 2023年5月27日
原作になかった奈々瀬の「何もかも全て忘れて」という台詞、本作で焼失した黒い絵や2016年に発見されたモネの絵(『睡蓮 柳の反映』なんと上野の国立西洋美術館に返還されていた…!)など、絵画のような作品というものが“忘れられる”ことと“存在が無い(とされる)こと”は同義であると言えるだろう。
だから奈々瀬は“忘れ”られることで呪縛の連鎖を止めたかったのだと思えるし、あの絵の存在は最早露伴の記憶だけに留まり生き続ける(泉も覚えてはいるが)という終わり方は、悲劇を繰り返さないことと、絵と対峙して映された露伴自身の過去を本人が受け入れて前に進むことの両者を叶えるために、必然的な幕引きだったと思う。
そして「作品」とは、この挨拶の内容が指すような映画も含まれるはずだ。消費されていくスピードの速さは、“忘れ”られる速度と捉えられるだろう。