je joue

好きだってことを忘れるくらいの好き

『岸辺露伴ルーヴルへ行く』

※原作既読、テレビシリーズ全て視聴済

※5/18(木)最速先行上映会、5/27(土)舞台挨拶付き中継2回、東京ティーチイン×3回含む、計11回鑑賞済。

※批評的部分とファンの感想部分が混ざっています。文体も変えてます。

 

NHKドラマシリーズからの圧倒的なクオリティと世界観が強靭なため、2時間枠のスクリーンに乗せても全く遜色なかった。

むしろこれは映画でやるべきスケールだなと思うほど、ひたすらに画が美しい。

タイトル通りのルーヴル美術館のその存在そのものの美しさ、大きさ、歴史の重さ、雰囲気…予告で「人間の手に負える美術館じゃあない」と出てきたその通りの佇まいは、絶対に映画館で観るべき。

また、今回のテーマである「黒」になぞらえるならば、映画館という漆黒で満たされた空間で観る以上に相応しい環境があるだろうか?

(ぜひ映画館で観てください!)

ドラマシリーズの怪奇さはそのままに、少しエモーショナルで、血の通った人間らしい成分多めの露伴も新鮮だった。

漫画のためなら何をも厭わないストイックな漫画家である彼もまた、一人の人間であることが感じられただけで、観る価値があると思う。

 

 

↓↓↓以下、ネタバレ↓↓↓

 

 

 

 

 

 

【小ネタと感想】

 

カメラワーク

ドラマシリーズから多用されていた、低い位置から見上げたり、全体が斜めに傾いていたりする不可解な位置からのショットは今回も健在。

映画館の前方に座っていると、本当に露伴先生に見下げられながら “ヘブンズ・ドアー”されている気持ちになる。これだけで映画館に行く価値があると思うくらい、正直どきどきして緊張してしまった…

また、青年期露伴パートでの、「黒い絵」について語る奈々瀬の横顔の真っ黒なシルエットと、その影越しに奥に露伴が映るショット。ずっとあの絵と怨念と共に存在していた奈々瀬への解釈の最適解だ…と見とれてしまった。
 
お家芸

オークションで競っている時ににやにやする表情が露伴先生だし高橋一生だ~ってなりませんか。ヨッ!\お家芸

帰ってからあのバイヤー(?)が侵入してきた時、歩きながら指先だけで軽くヘブンズドアーしてるのが衝撃的だった…なにあれ格好良すぎる。


パリの記憶をたどって

パリパートの最初で、ルーヴルの事務所が映った時にサイレンの音が鳴っていて、あれパリっぽいなーと思った。日本のサイレンと音が違うので印象に残るのと、パリ市内の至る所であの音を聴いた記憶がすごくあるので。

あとルーヴルってあんな空いてることないです…平日でもなかなか入場チケットが取れなかった記憶があるのですが…(パンフを読むと休館日の火曜+水曜閉館後~木曜朝の撮影とわかる)


衣装

最高なのは毎回のことですが、今回のパリ滞在時の衣装が露伴と泉と真っ黒に統一されていて凄く良かった。ルーヴルの壮麗で豪華な建築・収蔵品、パリの歴史ある美しい街並みと曇天を背景にしたときに、シンプルだからこそ映える。

特に露伴の黒タイのお衣装めちゃくちゃ好きだなと…「先人の作品の眠る場所だ(中略)敬意を払え」という台詞通り、より畏まったスタイルになっているのと、単純に高橋露伴先生に似合っていて…

 

ちなみに、キラリナ吉祥寺で衣装の本物を直接拝見できて震えた…タイが通せるようになっているブラウスの首元とか、アウトしているけど下は黒くなっているブラウスとベルトの部分とか、Gペンモチーフ靴とか…

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テレビシリーズからのつながり

テレビシリーズの『くしゃがら』の時の、路地裏で十五と対峙した時のあの「これぞジョジョ立ち!」ポーズは、『ルーヴルへ行く』原作の、まさにルーヴルに降り立った時の両開きページのあのポーズを取り入れていたと高橋さんが明かしていて、一瞬で全てがつながってうわあああああ!と驚いた。

その際に映画化が完全に決まっていたわけではないようだし、伏線とも違うが、壮大な回収…!

 

セルフ“ヘブンズ・ドアー”の威力

原作にあったシーンなのに、映像化するとこんなにも説得力が増すのか!と圧巻されたシーンの一つ。

ヘブンズ・ドアーするとちゃんと文字が消えて真っ白になり、「全ての記憶を忘れる」書き込みをこすると文字が戻っている…凄い…

考えてみれば当たり前ではあるが、露伴バージョンは目元だけの仮面のような形状だったので、あの狭い面積でもきちんと文字が消えては出ていて印象に残った。


フランス語について

ルグランの絵の背面部分が一瞬しか映らないので、最初あまりよく読めていなかったのだが、ルグランの走り書きは以下かなと。

"Ceci est le noir vu au Louvre. remords" (ルーヴルで見た黒、後悔)

 

そもそもオークションの冊子に記載されていた作品名が"Noire"つまり女性形なのが気になった。

普通に「黒」という色だけでタイトルをつけるなら男性形"Noir"が妥当だと思うが、描かれている対象=「黒い絵」に描かれているのが女性(奈々瀬)であることを暗に示しているのかなと推察した。

ただし、黒髪(Cheveux noirs)は複数形なので除くとして、蜘蛛(Araignée)は女性形なのでそちらを指しているのかもしれないが。

 

登場人物に関しては、エマさんのフランス語が、日仏ミックスとはいえフランスにずっと住んでるネイティブのフランス語を意識されてたとのことで、劇中でも凄くその工夫が感じられた。

例えば、Louvreのrの発音をわざとネイティブにしている癖の強さとか、モナ・リザの前でのやりとりでいきなりフランス語(「でも…」を“Mais,ah…”と言い澱む)が入ったりするところ。

本当に両方の国にルーツを持つ美波さんが演じられていてよかったし、ご本人も両方の国が舞台になる作品に出演されるのは初めてと仰っていた。


そして度肝を抜かれたのが、祖母の形見のあの眼鏡(サングラス?)をかけて、フランス語をペラペラと話し出す露伴、つまり一生さんである…オイオイオイオイそんな設定聞いてないよォ…

少なくとも数年勉強している私より全然流暢でした(お前がもっと頑張れという話)

個人的に印象的だったのが、Z-13倉庫でフェルメールの絵が見つかり処分しようと持ち去る消防士を引き留めるシーン。

”Pourquoi?(とんでもない)”と話しながら挑発するような露伴の目つき・表情と発音、けしからんのでめちゃくちゃ集中して観ていただきたい…

 

 

【音楽について】

 

青年期の露伴パートの音楽

とても変わっていて面白かった。伝統ある旅館の佇まいと日本らし長唄の旋律の相性の良さは想像の範疇でありつつ、とても気持ち良く流れていく時間を感じた。

しかし、ガムランの不思議な音色がそこに乗ることで、日本のどこかの物語でありながら、どこかこの世のどこにもない場所のような異様な雰囲気が漂うのを感じた。

個人的に、元々ガムランの音色すごく好きで、まさか劇伴で流れるとは思わなくて新鮮だった。

 

多様な劇伴

上述の日本パートの最後の方でバロックっぽいなーと思う曲があり凱旋門シャンゼリゼ通りではどこかラヴェルドビュッシーを匂わせるようなフランス音楽感があり、Z-13倉庫で露伴が奈々瀬に助けられるシーンでは、中世の吟遊詩人の弾くリュートのような旋律があり(多分ハープだと思いますが)、バラエティに富みながら各々存在感のある劇伴だったと思う。

白眉はラストの江戸時代パートの音楽。弦楽の重厚で美しい響きは、哀しくも美しく黒く儚い山村夫妻の物語と共に紡ぎ寄り添うのに、これ以上なかったと思っている。あの音楽だけでもう泣きそうになる。

 

テレビシリーズからお馴染みの『大空位時代

岸辺露伴と言えば、と思えるほど象徴的なあのテーマを最後まで聴くことができたのが初めてだと思うので、大変感動してしまった。テレビシリーズより弦の編成を大きくしているとのことで、それを映画館の音響で聴くと、本当に迫力や重厚感があり、素晴らしい幕引きに思える。

 

 

【泉とエマ】

 

原作にはなかった泉とエマのシーンが一筋の光のような救済に感じられた。

そもそもエマは原作では助からないし、泉は出て来すらしない。(エマは、辰巳や消防士たちと違い美術品窃盗に関わっていなかったから、生かされたのかもしれない)

泉が黒い絵の中の女を見てもなんともなかったことを、パリパートのラストで露伴が突っ込みを入れていたり、泉の父がルーヴルのピラミッド前でニコニコで写る渡辺一貴監督のお写真という「わかる奴だけわかるネタ」だったりするので、なんとなく少し笑えるシーンとして流されてしまうような気がする

 

しかし、泉京香自身は勿論祖先含め、泉家には後悔や罪の意識を携えたまま死んだ人が居なかった、ということと捉えられないだろうか。(制作側にその意図はないと思うけれど)

あれだけルーヴルの関係者達が悉く襲われ、露伴自身ですらヘブンズドアーが使えなければ助からなかったであろう、世の殆どの人間が逃れられない血脈の強さを説く物語なのに。

 

だからこそ、謂わば「泉家が脈々と継ぐ善性」みたいなものの稀有さが際立つ、と私は感じた。

それは、今は居ないニコニコと記念写真に収まる父の「ちょっとそばに居たかった」、それだけでパリに来たと話す泉の父娘の関係だけでも説得力があると思うし、子を喪った悲しみを引き摺るエマを慰めるとしたら、彼女以外にその役割は務まらないはずだ。

断ち切れない呪いをかける“血脈”はまた他方で、生死も超えて身内の誰かを想う絆としても継がれていくものである…そう気付かせるだけで十分、二人の出番の意味を感じられると思う。

 

 

【仁左右衛門パートの功績】

 

今回の映画化において終盤の江戸時代の日本パートの追加こそ、きっと多くの方の印象に強く刻まれた白眉のシーンではないだろうか。

原作では殆ど触れられなかった仁左右衛門と奈々瀬の真実を膨らませ、そのパートをきちんと映像化したこと。

況してや、仁左右衛門の顔はわからないように描かれていた中で、露伴とよく似ている顔である=高橋一生一人二役とする英断。

 

英断と感じた理由として、まず露伴と仁左右衛門の顔が似ていることで、原作とは違ってZ-13倉庫で奈々瀬が露伴を救う展開に納得が行く。

夫の面影があり、更に同じ絵を描くことを生業とする露伴ならば、自分たちを止めてもらえるかもしれない、この人にこそ止めてほしいと考えても不思議ではないと思うし、

夫と同じ顔の露伴を夫が襲うという状況も受け入れられるものではなかっただろう。

 

加えて、仁左右衛門と露伴を演じ分けられるのは高橋さんの芝居の凄みありきであること。

このパートの冒頭の祝言の場面で、手前に居る奈々瀬から奥に居る仁左右衛門の顔にピントが合った瞬間―つまり、【仁左右衛門 (演・高橋一生)】がわかった瞬間、『おんな城主直虎』の小野但馬守政次を連想した方が大半ではないだろうか。

何故なら、一世一代の伝説的な芝居と言っても過言ではなかった政次と同じ、月代に髷姿の高橋一生をそこに見てしまったからだ。

 

実は前半の日本パートにて、奈々瀬が露伴に「似ている」と話す台詞が加わっていたために、その時点でもしかしたら仁左右衛門も演じるのか…?と想像していたのだが、実際のシーンは想像の範疇を軽く超えるものだった。

自分の顔とそっくりな仁左右衛門を見てゆっくり目を閉じる露伴、手前から奥へとピントが移ったあの一連のシークエンスを観た時の衝撃と、全身を駆け巡った感情のうねりを、私は一生忘れないと思う。

 

個人的には“一生さんのファン=イセクラ”の端くれとして、あのパートに“俺たちの見たい高橋一生”が全部詰まっていたとも思っている。

絵師として純粋に画法を追求する真剣な横顔と筆を運ぶ手先、奈々瀬を大切に想うことがわかるやさしい眼差し。

一転して不遇の境地に追い込まれ、更に奈々瀬の黒髪を描くことや黒い樹液に取りつかれた姿。

後ろ手に拘束される姿、奈々瀬の手を取ろうとしながら呻く声、奉行所の者たちを押しのけ殺してしまうほどの勢い、神木に向かって一心不乱に斧を下ろし真っ黒に染まりながら筆を取る姿、黒染めの顔と閉ざされた眼に一筋流れる涙(一生さんのお芝居で自然とそうなったとのこと…!)、気付けば蜘蛛の巣だらけの住まいに二人寄り添う姿…

本来はきっと優しく真っすぐな方だったのだろう。そんな一人の人間が追い込まれて変容するその落差と同時に、グラデーションのように移ろっていく一人の人間の人生として見せる。

「狂気」と一言で言ってしまうには惜しいくらい、その表現のバリエーションに改めて感服した。

 

 

余談だが、人物デザイン監修と衣装監修の柘植さんの描かれた仁左右衛門のスケッチがパンフに収められているのだが、見た瞬間にエゴン・シーレの絵みたいだなと思った。

何かに憑りつかれ、人非ざる感と気迫を感じるイメージが当初から想定されていた人物デザインの確かさと、それを体現している高橋さんが凄いことを実感できるので、ぜひ確認してほしい。

 

この配役の妙と芝居の凄みは、高橋さんご本人の岸辺露伴への愛情だけでなく、渡辺監督が如何に高橋一生という役者を今までの共作の中でよく見ておられて、理解しているからこそ実現したのだと感じられた。

すなわち、渡辺監督と高橋さんの一連の共作(露伴ドラマシリーズは勿論、『おんな城主直虎』『雪国 -SNOW COUNTRY-』)を踏まえての本作という流れがあってこそ結実した作品であることを、ここで強調したい。

漫画である原作を補いながらスケールアップさせ、“高橋一生の演じる岸辺露伴”を主役に据えるべき理由と、物語の説得力・訴求力を確かに強靭にすること。映画でしかできないことを実現させること。

本の小林靖子さんの鮮やかな手腕はもちろんのこと、渡辺監督の素晴らしい采配に本当に拍手を送りたい。

お二人の仕事をリアルタイムで追ってこられたことをとても嬉しく思う。そういったファンが堪らないような、思わず心が震えてしまうような最高傑作が出来上がっていると感じた。

 

また、付け加えておきたいのが、先行上映会にてサプライズでご登壇された際にも、高橋さんが「日本パートを見てほしい」と仰っていたことや、パンフからも相当な思い入れをもって演じられたとわかることだ。

本作は『岸辺露伴ルーヴルへ行く』というタイトルであるが、真髄はルーヴル美術館だけでなく日本で撮影された2つのパートにもしっかりと存在していたと思う。

パリと対照的に、日本パートの自然の美しさや多湿な日本の環境が、露伴の過去の記憶の中のノスタルジーさや、ねっとりとした情感を伴った“私的な記憶”をよりリアリティのあるものに仕上げていた。

露伴が“読む”仁左右衛門パートも、もはやノスタルジーを超えたリアリティを伴った悲痛な哀しい先祖の歴史を、日本の原風景のような緑の中に映していた。

あれだけ壮麗なルーヴルやパリの街並みと、黒い絵が人に作用する強さと恐ろしさに負けず、強烈な印象を刻み込んでくるのは流石としか言いようがない。

物語からしても、仁左右衛門と奈々瀬の過去から始まっている、という点で非常に大切なパートだし、前半の日本パートにて原作より瑞々しく初々しい露伴像を見せた、長尾さんのお芝居も大切な要素であった。 

 

 

【「この世で最も黒い絵」の結末】

 

「黒い絵」が最後に燃えて無くなるのが、あの絵の結末として相応しすぎる幕引きとなっていた。

原作では焼却処分されたらしいとの曖昧な記載に留まっているところ、きちんと燃えていく様が収められていたことに意味を感じる。

 

そもそも怨念で人が死んでいくのを断ち切るには、物理的にこの世に存在しなくならなければならない。

そこでどうやって無くなるのかを考えたときに、露伴邸での会話を思い出したい。黒の顔料の多くは何かが燃えた炭からできるのだと

それから、ヘブンズ・ドアーされた奈々瀬が最後に手にしていた黒い紙のようなもの、あれはあの絵の燃えかすとして残った炭なのではないだろうか。

それを木の根元にそっと置いて、露伴と言葉を交わしてから奈々瀬は消えるのだ。

 

つまり、「黒い絵」は炭というやはり“黒い”物体になっていて、おそらくかつて神木だった木の、樹液が流れ出ていたその出口を奈々瀬自身が“閉じている”のではないだろうか。

露伴があの絵とルーヴルで対峙し、ヘブンズ・ドアーで過去を一旦断ち切り、燃やされることで、やっと山村夫妻自身も絵の呪縛から解放されたはずだ。

それを経た後だからこそ、その呪縛からの解放を示す象徴として、奈々瀬自らが“閉じる”一瞬を描いているのだと思う。

(注:何度か観た上で気づいたのですが、あの木は神木でなく、墓石のような何かがある木という解釈のようですね…?ちょっと上述の解釈に無理が生じるかもしれませんが、違う場所でも奈々瀬のその行為には意味があったと捉えたいです)

 

露伴自身も、かつては奈々瀬の心を読むことを踏みとどまったが、時を経て年齢を重ねたことや、ルーヴルでの一件を経てやっと読むことができている。

彼自身も良い意味で過去から距離を取り、「あの夏も僕にとって必要な過去の一つだ」と認めることができる時間が必要だったのだと思う。

奈々瀬が自分から手を添えてヘブンズ・ドアーに導くその一連の流れの美しさと、そこに至るまでの長い長い時間を想うと、込み上げてくるものがあった。

本当のラストでも、あの原稿をきれいな形のまま露伴に“返した”と受け取れるのも、本当に解放されたことを予感させる終わり方でとても良かった。

 

 

【ルーヴルで交差する芸術家たち】

 
原作に無かった要素として、辰巳やルグランというオリジナルキャラクターを取り入れ、美術品の贋作を用いた窃盗団の顛末を取り入れている。
かつて露伴が祖母宅にて黒い絵に出会っており、ルーヴルに買い上げられたことで約20年後に誘われるという運命性や、日本とパリ両方に窃盗団が居ることでより事件性を高め、「ルーヴルへ行く」能動的な露伴ですら巻き込まれている一面もある流れを作り、原作から膨らませる点があったのだと推察している。
 
しかし、最も重要なのは、同じ絵を描く者としても全く違う運命を辿った露伴・仁左右衛門・ルグランを対比させることにあるのではないかと考えている。
もっと具体的に言うならば、露伴≒仁左右衛門≒ルグラン(+辰巳や故買屋)だろうか。
まず、美術品を金儲けの道具としてしか利用しなかった辰巳や故買屋、そしてそれらに巻き込まれている画家・漫画たちという大きい構図がある。
それに協力しながらも「黒い絵」から"後悔"を見て、模写を残しながら死んでいったルグランは中間的な存在だろう。
しかし、ルグランも緻密な贋作を残せるほど素晴らしい技術を持った画家であったとも捉えられる。
 
仁左右衛門は一番悲劇的な運命を辿るが、本来は蘭画など国やジャンルに関わらない表現を求めているし、「黒い絵」が生まれてしまったとは言え、奈々瀬の黒髪を表現するための追求の結果と考えると、研究熱心な根っからの絵師なのだ。その点、やはり仁左右衛門と露伴はかなり似ていると思う。
贋作ビジネスや国家と歴史という大きなものに潰された点では、ルグランも仁左右衛門も犠牲者と言えるだろう。
 
また、そもそもルーヴル美術館が辿った歴史も複雑で、かつて要塞・宮殿・国の省庁などとして使われていたし、収蔵されている作品には戦争と略奪によって齎されたものもある。それらを生み出した様々な時代の芸術家たちやどこかの国の先祖たちの人生も様々だっただろう。決して綺麗事だけで芸術は生まれないことも忘れてはならない。
 
そして、岸辺露伴シリーズが荒木先生の描かれた漫画であるということも踏まえるならば、虚実を超えて芸術そのものの美しさや尊さと共に、それを追い求める者の運命の儚さ、純粋に突き詰めていくことの難しさが迫ってくるように思う。
岸辺露伴ルーヴルへ行く』の原作の冒頭において、露伴自身が名前の由来を話している。
 
「両親が付けてくれた名で―『露』ははかなきもの―『伴』はともにすごす

 

漫画は一例なのかもしれないが、そんな「はかなきもの」のためには何をも厭わない露伴という人物は、ルグランや仁左右衛門など様々な芸術家が叶えられなかった理想的な芸術家の一人なのではないかと思う。

また、彼が両親からもらったと言うそんな名前に想いを馳せるとき、やはりこの物語は大元から血脈の物語だったことを、更に強く感じられはしないだろうか。

 

最後に、公開記念舞台挨拶にて、「俳優として、この『はかないもの』と共に過ごしていきたい」と、この名前の由来を引用して高橋さんが挨拶をされたことも覚えておきたい。(とても素晴らしいのでぜひ全文をお読みください)

 

 

原作になかった奈々瀬の「何もかも全て忘れて」という台詞、本作で焼失した黒い絵や2016年に発見されたモネの絵(『睡蓮 柳の反映』なんと上野の国立西洋美術館に返還されていた…!)など、絵画のような作品というものが“忘れられる”ことと“存在が無い(とされる)こと”は同義であると言えるだろう。

だから奈々瀬は“忘れ”られることで呪縛の連鎖を止めたかったのだと思えるし、あの絵の存在は最早露伴の記憶だけに留まり生き続ける(泉も覚えてはいるが)という終わり方は、悲劇を繰り返さないことと、絵と対峙して映された露伴自身の過去を本人が受け入れて前に進むことの両者を叶えるために、必然的な幕引きだったと思う。

そして「作品」とは、この挨拶の内容が指すような映画も含まれるはずだ。消費されていくスピードの速さは、“忘れ”られる速度と捉えられるだろう。

 

昔から作品の大ファンである高橋一生という俳優が、岸辺露伴というキャラクターを見事に演じたというだけでなく、各々の生業を「はかなきもの」と認識しながら、ずっと伴ってそのために生きていると言っても過言ではないところに、まさに虚実を超えた運命を感じてしまうのだ。